藍木野と井上伝

1. 藍木野


 藍木野は、久留米絣、手作り洋服店として、下北沢の本多劇場を出た通路を出たところの小さなコーナーでひっそりとはじまりました。1995年の4月2日のことです。

しかしもっと詳しく言えば、それ以前、久留米絣の地元福岡県の久留米南町です。私は趣味で絣の古布や久留米絣の手織りの収集に熱中していました。絣を通して、生涯忘れられない織元さんや人との出会いがありました。

これからはそんな藍木野の物語や、尊敬する久留米絣の創始者井上伝のことなど、いろいろとおしゃべりをしていこうと思っています。井上伝ファンクラブが生まれることを夢見て。
 私はもう一度、愛すべき人物像として、井上伝が世に出て欲しいなと思っています。井上伝は久留米の米屋の娘。
こういう私も大牟田市の元米屋の娘です。また、ここでは私の収集したお宝も時々お見せします。久留米絣、絣大好きの皆様、よろしくお願いします。

2. 井上伝のこと

 久留米絣の創始者、井上伝は1788年、米屋の娘として生まれました。子供の頃から、手が器用で針仕事が大好き。8才から機織りを習い、12~13才の頃には木綿織では大人に負けない織り手となり家計を助けるまでになっていました。

12才といえば、今、小学6年生です。伝がいかに織りが好きで、この仕事にのめり込んでいたかがわかります。

久留米絣を考案したのもこの頃です。着古した藍無地の着物のところどころ白く色が抜けているのに気付き、その美しさに魅せられて、そのからくりをさぐり、久留米絣を誕生させました。それが霰(あられ)、雪んこといわれる柄です。1800年頃のことです。

伝、15~16才の頃には、20人以上の人が絣織りの指導を求め、伝のもとに集まっていました。その後生涯を通じ、伝はひたすらに自らも織り、また多くの人に久留米絣を指導しました。

私は伝に心ひかれるのは、単にその仕事ぶりだけではありません。伝の生き方です。指導を求められれば誰にでも応じ、そして老いても遠くまで足を運び、指導したのです。生涯を通じ自らの経済力よりも、好きなこと、織ることに集中し、又指導を優先した生き方なのです。明治2年、1869年82才で亡くなりました。その時、伝はささやかな借家住まいだったと聞いております。

2000年に、久留米絣誕生200年祭として、久留米では大きなイベントが催されました。私達藍木野も、その年の1月に下北沢本多劇場を借り切って、ファッションショーや絣の大作の作品展、久留米の名産品紹介など、お祝いのフェスティバルを盛大に行いました。

3.伝さんの絣が私のところに

私が久留米絣の収集に夢中になってる事を しって、学生時代からの友人Nさんのお母さんが、「そげん好いとるなら代々家に残っ取る絣ばやるよ」と。戦争で焼け残っている家の屋根裏部屋にあった布団のかすりです。Nさんの町は伝さん、そして、儀衛門さんが住んでた町です。もらった当時は、恥ずかしいことですが、まさか、伝さんのものとは思いもしませんでした。もう、ない、ということは知っていましたから。素敵だなあ、と思い、いつもどうり、パッチワーク仲間にきりわけてあげました。何年かたち、伝さんの資料を調べていくうちに、これは?と思い始めました。いろいろ調べた 結果伝さんのものと確信しました。文化財保持者のお二人にも見ていただきました。「当時の糸で確かです」ということでした。いま、その兄弟は、わたしの手元、くださったNさん宅、織り元の久保さん宅、残りの布はパッチワーク仲間の手元3,4人のところに分散しています。。皆さん大事にされてるかな。なかには、その事実を、いまだ知らないままの人もいます。写真の布がそうです。貴重な久留米の財産をきざみ切った私をNさん許してください。 伝さんを、親しく感じることが出来るのはこの布のおかげです。 

4.運命の再会 2007年 布団柄絣二点

 18年ぶりに隣同士に飾ってあげました、この二枚の久留米絣布団柄の古布。久留米にあった骨董屋、「四月の魚」で買った布団柄は右です。日高さんが持ってきた布団柄が左です。
 久留米の「四月の魚」では、この二つが一緒に飾ってありました。お店に入ったと同時に私はこれらの久留米絣の織りに感動し、圧倒されました。出所を聞くと、吉井の方ですと言われました。多分二枚同じところにあったものでしょうと。しかし当時のわたしの経済状態では両方を一度に手に入れることは出来ませんでした。次の日に右の布団柄を戴きました。とても高価なものでした。

日高さんにこの柄を見せられたとき本当に驚きました。「四月の魚」さんにあったと同じものかどうかはわかりませんが、柄は同じです。布味も似ています。その運命的な再開に二人で喜びました。展示会の主役はこの二枚の久留米絣布団柄です。

「四月の魚」さんに飾ってあったように、そして、多分、元の持ち主の方の家に、ずっとこうして、対のお布団として?あったように、二つ並べて飾りました。
 お店いっぱいに飾られた二枚の布団柄は圧巻です。綺麗です。一つひとつ違う柄の括りの作業の大変さを思うと、気が遠くなります。 ぜひこの機会に実物を見にいらっしゃいませんか?

5.古布 布団柄

学習研究社の本「古布に魅せられた暮らし」其の六に吉田が、そして、其の五に日高さんが紹介されました。写真撮りの日は、朝から一日中かかりました。

集めた古布を広げると、何度眺めても、不思議と新鮮な感動に包まれます。

洋服に作る人が多いですが、私は、インテリアとして、タぺストリーにしたり、クッションにして愉しむのが好きです。ただ古布を壁にピンナップするだけでも素敵、タンスに掛けるのもいい。

 

 

 
6.古布帳

これらの布は長年の私の収集や、日高さん、山村さんなどの協力で集めた布です。その布の見本帳を作ろうということになり、少しずつ日高さんが整理してくれました。絣の布は私たちの恋人かな。そして、井上伝はこの上ない大好きな人間です。お互いにゆっくり出来るようになったら、色々な絣見本帳を完成させ、布の整理をしたいと思っています。






古布no.1 あられ

井上伝が、17歳ごろ初めて工夫して織った柄です。久留米絣の最初に織られた文様といわれています。雪ん子とも呼ばれています。大きな霰、小さめの霰、と様々でこの霰柄がもっと小さくなると、蚊がすりとなります。先染めの久留米絣経糸緯糸の括りの原点です。経糸、緯糸をそれぞれ括って染め、括ったところを外すと白く残り、合わせて織る。

結構細部まで映るカメラで写したので、経の糸緯糸の、括られて藍に染まっていなくて白く抜いてあるのが良くわかると思います。白の部分を経糸張りのとき揃え、緯糸を一段一段織るときに出来るだけ丸く一段ずつ少しずつ揃えながら織っていくのです。その少しずつかすっていく感じから”かすり”と言われるようになったという説もあります。

こう説明すると、絣は織りが一番大変と思われがちですが、実際に一番大変で手間がかかるのは、括りの作業です。

古布no.2 蚊絣

文様が蚊の様に見えられるため蚊絣と呼ばれるようになった。 十字絣の仲間で、織り経の数が普通50立ち以上の小さな十字絣を蚊絣と呼んでいます。

古布が好きな人たちの中では人気の柄です。骨董市でもとても貴重な柄で、状態の良い物はなかなか残っていません。見かけても、状態が悪く、値段も高いです。

今は森山虎雄氏が織られるくらいで、このところほとんど織られていないのが、実情です。2~3年前に、息子さんの森山哲也さんが、文化財にだされました。その貴重なものは藍木野も縁あって、手に入れる事が出来ました。昔も、新しい反物はよそ行きの着物として仕立てられました。

古布 no.3 亀甲80立

亀甲柄は久留米絣だけでなく、紬でも、良く織られている広く知られている柄です。六角形が連なった細やかな柄で、小さいほど織り立ても織りも大変で貴重のものになります。

久留米絣では先代の人間国宝の森山虎雄さんの作100立を見ていますが100立ともなれば細い糸なので、絹のような感触で、触ってとろけるようです。 絹の紬では、120立のものも存在します。 綿で120立はまだ私は見たことがありません。蚊絣もいいですが、亀甲は少しグレーかかっていて艶があり、着る人を上品にします。私は亀甲が大好きです。


古布no.4 亀甲赤入り80立

no.3の亀甲の中心に朱を入れた珍しい物です。

亀甲は男性のよそ行きの着物や、着物のアンサンブルとして着る方が多かったようですが、朱入りは主に女性のよそ行きの着物として多かったようです。高級感漂う一品です。

 

古布no.5 井桁

久留米絣といえばこの井桁を思い出される方は多いでしょう。十字絣の変形です。

小さな柄は女性の主に普段着として、大きな井桁は男の子たちの日常着の着物として広く好まれました。はっきりしていて、着る者を愛らしくする柄ですね。

 

古布no.6  三角

鱗模様とも呼ばれる。三角形の一辺を一段ずつ階段状になるように 括らなくてはいけないので 高度な技術が必要となります。 手括りでしかできないものです。白と藍が、お互いをきわだたせるシンプルですがとても手の込んだ柄です。

 


古布no.7 長円

円の仲間です。緯糸は分割する必要がないが経糸は階段状に分けて括る必要があります。円より少しは簡単だが技術のいる柄です。

製品としても珍しくあまり見られません。

 

古布no.8 円

円も長円も括りの技術は高度な方です。縦横括りです。

それでは、円と、長円は どこがどう手間が違うかお分かりですよね。縦、経糸が円の方が横に広い分括りが多くなります。横、緯糸の方は、同じ括りですが、横に広い分広がるように括る必要があります。ですから、多少ですが、円の方が括りに手間がかかります。

霰と似ていますが、中心の色が出る所は括らないように計算が必要ですから高度な技術と、手間がかかる柄ですよね。円の古布があまり残っていない、ということは手間がかかりすぎるので、あまりこの円は作られなかったのですね。貴重な古布と言えます。

古布no.9  四角

これも縦横絣です。円と違って四角をアレンジした柄は数多く残されています。

着物用の小柄、そして夜具用として織られた布団柄に、たくさんの楽しい幾何学模様が残されています。ということは四角の括りは、縦横ながら計算しやすく、先人たちは、色んなアレンジを愉しんだのです。良く見ると、経糸、緯糸の一本一本が写真でもお解かりになると思います。

古布no.10 市松

久留米絣以外でも見られる日本の伝統の柄です。井上伝により、絣が生まれるずっとずっと昔から織られていた日本の、いや世界の、伝統柄です。これも縦横括りの柄です。

市松の大きさを変えるとまた、雰囲気が変わります。大きい物は、夜具やインテリアに、中くらいは、子どもの着物に、小さい柄だと女性用、男性用の着物にと…。
 

古布no.11 大島調

鹿児島の大島の代表柄。文人織りや書生絣とも呼び、一世を風靡しました。

大正、昭和初期に小説家や芸術家、事業家の中で流行したとともに、成人した男子にお祝いとして、着物と羽織とのアンサンブルで作ってあげるということも流行した。日本中で、久留米絣の需要が増え、久留米では生産が間に合わなく、粗悪品が出回る実態とまでなりました。

手がかかる割には安価な値段ということもあって、人気が高まったのでしょう。写真ではちょっと見にくいが丸い文様の間に横に二本ずつの線が見える。これを電車道といって、この電車道が綺麗に揃うように織ることが職人技と、お互い競いあったそうです。今は高級品です。

古布no.12 麻のは

植物文様の一つです。大麻の形の部分はよこそうとか、絵がすりとか言われ、横糸だけの括りで経糸は無地で織られています。しかしこの麻の葉は、中心の部分を縦横と括り、白く霰柄としている。
藍で染めた部分は100年以上経っても結構丈夫ですが、白のまま染められていない部分使い古されると弱く、しょうが抜けていることもあります。麻の葉柄は、子どもの健康を願って、赤ちゃんや子ども達に好んで着せられましたが、女性の着物の柄としても人気がありました。

古布no.13 蜻蛉

十字絣に横一本を足してきの字となり、それをアレンジして、蜻蛉とんぼに見えるためこの名がつきました。女性の着物として好まれたようです。

私の母が、この蜻蛉に似た柄の着物を着ていた記憶があります。洗い古したせいかもう少しブルーの深い色合いでした。母にとてもよく似合い、何度見ても飽きない柄でした。触ると心地よかった思い出があります。あの着物はどこへいったのでしょう。 

古布no.14 田の字

四角と十字絣とを組み合わせたもの。経糸を三列、緯糸を三列と括り、織っていくと田の字となる。こういう組み合わせての柄は、其の意匠を考える所にも愉しみがあったようです


 
 

古布no.15 四角アレンジ

「この柄好きです。良い柄ですね。」と言われる方が多いです。
四角のアレンジ柄ですが、縦横の括りが綺麗で白の部分がくっきりと浮き出ています。特にインテリアには合います。
四角の柄、大・小の二種類を組み合わせただけのものですが、組み合わせ方でこんなに素敵な柄が生まれるのですね。

7. 私がデザインを考えるとき 2007年8月

デザインを考える時は人によって様々だと思います。
わたしは、色んな場面で考えます。一番多いのは出張の時のホテルです。
何もすることがないので出張の時はいつもクロッキー帳を持っていきます。

自宅で夜中に。デパートの販売中に。お客様が絶えてのんびりした時に、また、売れなくて苦しい時に。などなど。

しかし、一番アイデアを考えるのに愉しいのは、歩いている時です。街中を歩いている時に、爽やかに颯爽と歩いている人に出会うと、あの人にこんなの着て欲しいなとアイデアが湧きます。

せっかくお洒落な服を着ていらっしゃるのに何だか生き生きされてないなと思うことが時々あります。そうすると私のアイデアの泉がむくむく湧き上がります。あれを衿をこんな風に変えて、シルエットをこう変えてと。きっとあの方は歩き方まで変わるでしょうに。

街中を歩くのはとても愉しいです。都内はもちろん地方の方はとてもお洒落ですから。
藍木野の服はシルエットがいいですね、とよく誉められます。嬉しいことです。

其のシルエットを壊さぬように、仕立て職人さんには、一センチの不足でも狭い反物を繋ぐとか、結構苦労させています。

ずっと飽きない服を、町を歩くのが愉しくなる服を、気持ちよくていつでも着ていたい服を藍木野は作り続けましょう。


8-1. 私の原点その一  2008年3月24日

久しぶりに下北沢を歩きました。

駅の周りは相変わらず、超若者通りです。中学生、高校生、そして20才そこそこの若者向きのお店ばかりが目立ちます。昔からある馴染みのお店が見つかると嬉しくなります。それも、ぽっつん、ぽっつんです。 北口の奥へ行きました。路地の向こうにお店が新たにできています。その又路地裏にも。素敵なお店が並んでいました。爽やかで上手に緑を取り込んで、ほっとするお店があっちにこっちに。普通の住宅とお店が路地に同居しています。 歩いていて思い出しました。ああー、ずっと前に見た光景。記憶に残っているのは、40年ほど前の私がまだ20代の頃の下北沢の街並です。 nonnoや美しい部屋などの雑誌が発刊されて、その記事の中に下北沢がよく登場しました。

いくつかの綿生地のお店が紹介され、しおつぼなどの洋服やさんが紹介されました。

まだ貧しくてなかなかお買い物はできませんでしたが、土日のお休みにはいつも下北沢を探索し、街の隅々まで知り尽くしていました。何軒もある、コットンのお店ではその生地の風合い、ヨーロッパの柄や色の美しさを楽しみました。 雑誌で見るお店の商品のを手にとって見ることができるのはとても幸せでした。

美しい部屋の雑誌を見て四畳半のアパートの窓に素敵なコットンの布でカーテンを作るのが

私のささやかな贅沢でした。若い頃の下北沢の暮らしが私のファッションの仕事をしている今日の原点の一つかな?
下北沢の新たに生まれた素敵な空間に又遊びに行きます。

※しおつぼ:当時確か本店は、横浜元町にあり、雑誌によく取り上げられていました。


8-2. 私の原点 その2 2008年3月26日

 今から、50年ほど前の私、小学校高学年から中学生の頃、ジュニアーそれいゆという雑誌を楽しみに眺めていました。(姉は、それいゆでした。)

中原淳一の少女の絵を眺め、その本に載ってる洋服が憧れでした。この洋服をどんな生地で作りましょうかと。

 恵まれていたのは、母は5人の子供達には年に2~3度新しい服を作ってくれました。自分は一切何も買わずにです。大牟田で有名な洋装店があり、そこの服を作っている人が、すぐ近所に住んでいましたのでいつもその方に作ってもらいました。

小さい頃はいつも姉のお下がりでしたから、高学年になってその方から自分だけのものを作ってもらえるようになってからは、もう夢中でした。一つのものができてからは、なんか月も後に作る次の洋服のことばかり考えていました。そして、何度も洋装店に足を運び生地を選ぶのが楽しみでした。

仕立て業の樋口のおばさんのうちにはよく遊びに行きました。今にして思えば、仕事の邪魔をしてたのに随分と可愛がってもらいました。

 中原淳一の絵の中にあるかわいらしさを今も求め続けているのかも知れません。そして布を眺め、手にしたときの感触を楽しむのはその頃から身体に沁み込んだ喜びなのでしょう。

 時に、お店で同じような記憶を持つ方に出会います。その方たちはじっと藍木野の洋服を眺め、同じ思いをされるようです。かすかにですが思いが伝わるというのは嬉しいことです。


8-3. 私の原点 その3 2008年3月30日

オードリーヘップパーンと姉と小学生の頃8歳年上の姉(その頃高校生だったと思いますが)が映画館にしょっちゅう私を連れて行ってくれました。

私の育った大牟田は炭鉱街で賑わい、映画館がいくつかありました。見るのはいつも洋画でした。

翻訳の漢字がわからないのですが、ヘップバーンの愛らしさにわくわくし、ファッションにうっとり見とれ、姉に映画に連れて行ってもらえるのが嬉しかったです。

背が高くスタイルの良い姉は、ヘップバーンの服装に刺激され、例の樋口のおばさんに素敵な洋服を作ってもらっていました。時には自分でもはさみを入れてミシンを踏んでいました。

フエルトの全円のスカートは緑色のフエルトと、多分黒い増えるとの生地で作っていた事を覚えています。
タートルネックのセーターに全円のスカートを颯爽と着こなす姉は素敵でした。
ヘップバーンの洋服が初期のジバンシーだったことはずっと後に知ったことです。

20代の頃そして40代の頃とフランスを訪れた時、フランスの町のパリジェンヌ達がセーターとスカートやパンツとシンプルなファッションで色の組み合わせがとっても綺麗なのに驚きました。

映画で見た光景そのものでした。
セーヌ川の橋の上を軽快に歩いているお年よりはピンクのセーターにシフォンのスカーフでした。

シフォンのスカーフがあまりにも素敵なので後にイギリスのデパート、リバテイーで素敵なシフォンの生地を見つけたときは、嬉しくていくつも買いました。(普段旅行中ほとんど買い物をしない私なのですが)

話が少しそれてしまいましたが、デザインする時、私の愛するヘップバーンの装いが心のどこかにいつも潜んでいるのかも知れません。